沿革


梅花山 光明院 天王寺

宗旨:真言宗豊山派(東京第五号宗務支所下)

本尊:不動明王

開山:不明
開基:北条家臣 肥後守小川義継
中興:阿闍梨 祐秀


現住職:第二十世 亮昌
 
 当山・光明院の開山に付いての記録は無く、正和五年(1316年)に北条家家臣肥後守 小川義継が当地に祈願所を建てたのを開基としており、少なくとも鎌倉時代末まではさかのぼれる様です。

 その後、戦国時代の16世紀末、、当山住職に就いた阿闍梨 祐秀(天正十三年没)が、現在に連なる寺院の基礎を形作りました。これを持って中興開山とし、阿闍梨 祐秀を中興祖/第一世住職としています。

 伽藍の変遷は不明ですが、文化九年(1812年)・第十三世 亮寛の代に本堂が、安政五年(1858年)・第十五世 亮寛によって山門が、それぞれ再建されたという記録があります。
 


茅葺き時代の山門(昭和三十年頃)
 
旧本堂
(昭和三十三年頃)


本堂で執り行われた葬儀の様子

 平成七年に、興教大師850年御遠忌記念事業として境内の大改修が行われました。
 現在の本堂は、その際に造立されたものです。




 当山の立地 〜「ぶばい」のこと〜

 当山光明院は、西に旧鎌倉街道(現在の光明院坂)、南に古甲州街道(現在の分倍河原駅へと向かう「さがりの道」)と中世多摩川(後に多摩川支流市川。現在は暗渠として遊歩道地下を通っている)に面した場所に位置しています。
 古の交通の要所で幾多の合戦の舞台となり、現在は「分倍河原古戦場」とも呼ばれています。

 当山光明院が建つこの地は、「ぶばい」と呼ばれる地域で、当初は中世多摩川の北岸、ハケ上にある光明院や村の鎮守・八雲神社を中心に、集落が形成されたようです。多摩川の流れが南に大きく変わった江戸中期以降、南の平地(分倍河原)に拡大しました。現在でも市川(現在は暗渠)を境にハケ上が上分梅、ハケ下が下分梅と呼ばれていた名残が残っています。

 
光明院坂を登って、八雲神社に向かう分梅の神輿

 よく疑問を呈されるのが「ぶばい」の表記です。
 現在の町名は「分梅」の文字を用いますが、京王線・JR線「分倍河原」駅を初めとして「分倍」の文字も用いられます。
 これはどういう事でしょうか。


 『新編武蔵風土記稿』などを参照すると「分倍」「分陪」「分配」といった表記も散見されます。
 古代律令制の時代、民衆一人につき特定の広さの土地(口分田)を預け渡して税を取る制度がありましたが、この地は多摩川の氾濫などで収穫量が低く、よって倍の広さの口分田を給付された事から、「分倍」もしくは「分陪」の名が興ったと言われています。

 光明院の山号も、本来は「陪花山」と号したが、これが何時の間にか「梅花山」と号される様になった・・・という記録があります。
 ですから、本来は【倍】【陪】の字を充てるのが正しかった様です。


 では地名・集落の名前として、いつから「分梅」の表記が用いられる様になったのでしょうか・・・。残念ながら、定かではありません。

 以前、村の古老たちから、「亮雄住職が、この辺は梅が多かったから、分倍の名前に【梅】の字を充てて書いていたから、分梅に成ったんだよ。」という話を聞いた事があります。
 亮雄とは光明院第十八世住職で、開基・小川義継の家系を継ぐ小川吉兵衛の子として分梅村に生まれ、本覺山妙光院(府中市本町)に小僧として入り、明治二十九年(1896年)に住職地であった天神山金蔵院(小金井市)より当山住職として転住、昭和九年(1934年)に、この地で没しています。
 しかしながら、古い過去帳をひもとくと、明治以前より「分梅」の地名が用いられている様です。



 
 


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