境内案内




光明院境内略図


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本堂

@御前立本尊

A宝篋印塔

斎場(「斎場」のページへ)

B永代供養墓

C角塔婆

事務室

D修行大師像

E生食台(さばだい)

F萬霊供養塔

G水場/線香売場

A.山門周辺

H共同供養墓

I裏門/駐車場周辺

J掲示板



山門周辺



 梅花山光明院の表の顔と言うべき山門。
 第十五代住職亮寛によって、安政五年(1858年)に建立。
 本来は茅葺きの屋根であったが、戦後になって瓦葺きの屋根に改装された。



【メモ】
 以前は山門から道路までは、もう少し距離があり、階段も緩やかな物だったといいます。山門に面した「根っこ坂」(現在の「光明院坂」)の整備拡張の際に、東側(寺院側)の土地が削られてしまった為、少し窮屈な姿に成ってしまいました。

 境内側から観た山門。



【メモ】
 現在、弁財天と池がある場所に、以前は六地蔵が立っておられました。歴代住職慰霊碑も、以前は永代供養墓のある場所周辺の墓地内にありました。
 平成七年の大改修時に、それぞれ移動と相成りました。





 ・六地蔵


 昭和四十三年(1968年)六月建立。
 平成七年の大改修時に現在の位置に移動。


 ・荒神様

 


 ・弁財天

 七福神の一人で、財福などの徳がある天女として信仰される弁財天。
 慶応年間より境外地(現在の南側駐車場)の塚上の祠(ほこら)に祀られていたが、平成八年七月、当時の木製弁財天像を胎内に納めて、現在の位置に青銅製弁財天像として新たに建立。


【メモ】
 池の中には、ボウフラが湧かない様にと、新田川で捕れたフナを放しているのですが、誰もその姿を見た事がありません。ボウフラが湧かないので、生きているとは思うのですが・・・。
 これまた新田川で捕まえた亀を飼っていましたが、川へと帰って行きました。


・歴代住職慰霊碑

 歴代の光明院住職を祀った慰霊碑。
 以前は永代供養墓が現在位置する場所の個人墓地の中にあった。平成七年の大改修時に、現在の位置に移動。



【メモ】
 光明院は中興開山祐秀以来、歴代住職は二十代を数えており、内故人は十九名となっています。
 ちなみに全員が境内地に埋葬されてはいません。以前は住職が一カ寺に留まらず、各寺院の間を転任する事もあったからです。現在、境内に埋葬された確認が出来るのは、十八世亮雄と十九世清雄だけです。
 とはいえ、遺骸がどこに在るかは関係なく、歴代住職の霊を弔い、礼拝する存在として碑が建立されました。


・掲示板

【メモ】
 宗派や本山のポスター、または光明院からの告知を掲示しています。
 参拝の折りには御覧下さい。


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御前立本尊


 平成十一年(1999年)に建立。



【メモ】
 何らかの事情で直接その姿を拝する事が出来ない場合、その仏の化身として、別の像を表において礼拝する事があります。これを「御前立」などと称します。
 本山の本堂も伽藍の二階に位置し、直接に本尊不動明王を拝するのが難しい事情もあり、本堂の正面下に御前立本尊として、青銅の不動明王像を建立しました。
 この不動明王像に礼拝する事は、直接、本堂の本尊不動明王に礼拝する事と同じなのです。


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宝篋印塔


 嘉永二年(1849年)に、第十五世亮寛によって建立された。
 塔の中に銅板に彫られた「宝篋印陀羅尼」を納める。

 平成七年の大改修時に現在の位置に移動。
 塔の下に、無縁の遺骨や弔い上げの済んだ永代供養墓の遺骨の合祀の場を有す。



【メモ】
 境内の大改修の前は、本堂の正面に在り、二段の石組みの上に建てられていたので、もっと背の高い建造物でした。
 ちなみに塔の各部に付いた傷は、関東大震災の際に塔が倒壊して付いたもの。

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永代供養墓

 → 「光明院御廟」の頁へ


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角塔婆


 平成七年の本堂落慶法要を記念して建立。
 本堂正面に立てられていたが、御前立本尊の建立の際に、現在の位置に移動。



【メモ】
 塔婆は正式には「卒塔婆」といい、サンスクリット語の「ストゥーパ(墳墓)」の音写です。仏教では釈尊仏陀の骨(仏舎利)を納めた塔の事を指しました。つまり釈尊仏陀のお墓です。
 本来は石の「五輪宝塔」(歴代住職慰霊碑を参照)の形でしたが、簡略化した木製の柱が現れました。これが「角塔婆」です。
(さらに簡略化した板状の「板塔婆」もあります。我々が普段目にする「塔婆」は、これですね)
 元々が「仏舎利塔」ですから、昔から墓標としても用いられました。
 真言宗では、「塔婆」には上部に五輪の刻みを入れ、梵字を書き入れ、大日如来の体を表しているのです。


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修行大師像


 昭和五十九年(1984年)四月、弘法大師入定一千百五十年御遠忌を記念して、当時の壇信徒の青壮年を中心として建立。
 平成七年の大改修時に現在の位置に移動。



【メモ】
 当時の大師像建立実行委員会を核に、宗祖弘法大師空海を拝する講として「光明院大師講」が創られました。
 「光明院大師講」は、総本山長谷寺などへの団参、仏教書やカレンダーの配布などの活動を、現在も途絶える事無く続けており、毎年正月には尊像の御前で「大師講年祭」を執り行っております。

 

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生食台(さばだい)


 欲望の飢えと乾きのあまりに、餓鬼界に落ちた亡者(餓鬼)に食事を施す為の台。
 台の高さは、餓鬼の身長に合わせたもの。



【メモ】
 本堂の本尊様や各諸尊に施した飯を、生食台で餓鬼に施しています。
 ・・・ちょっとおしゃれな野鳥の餌やり場ではないのです。


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萬霊供養塔


 平成十五年(1999年)建立。
 この小さな「五輪宝塔」は、人間に限らず、あまねく全ての霊を弔い供養する為の塔。



【メモ】
 亡くなったペットの供養をする場所が欲しいという声に答えた物で、塔の下に動物の遺骨を埋葬できる様に成っています。



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水場/線香売場


共同供養墓

 「光明院御廟」の頁へ


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裏門/駐車場周辺


・掲示板

【メモ】
 老朽化したブロック塀を耐震補強しつつ使用していましたが、平成十五年に塀の新築工事を施工。その折りに、壁面に掲示板を設置しました。
 時折、ポスター等を掲示しています・・・時折ですが。


※政党ポスター・選挙ポスター等の掲示はお断りしています。
  無断で貼られたポスターは処分させて頂きます。


・駐車場

【メモ】
 境内南側にある駐車場です。
 以前は雑木の茂る塚と、その上に弁財天を祀る祠とがありましたが、平成七年の大改修の折りに、弁財天を現在の位置に移して、駐車場としました。



・石橋供養塔

 慶応四年(1868年)建立。



【メモ】
 石橋供養塔の名の通り、掛け替え時に取り壊した石橋を供養した物と思われます。
 現在では面影もありませんが、御狩場道から府中第三小学校周辺まで続く遊歩道は、「市川」と呼ばれる小川が流れていました。これは新田川などにつながり灌漑用水に使われていた様で、多摩川の小さな支流の一つです。古くはハケ沿いに古多摩川が流れていた名残だと言われています。
 この川には「光明院橋」など、いくつかの橋が架けられており、その中の一つを祀った物と思われます。

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掲示板

【メモ】
 平成十五年(2003年)に塀の新築工事を施工した際に、掲示板を設置しました。
 以前は古いブロック塀に補強工事を施していましたが、老朽化が進んだ為に、全面改修しました。西側壁面の下部には、以前の塀の名残が残っています。


※政党ポスター・選挙ポスター等の掲示はお断りしています。
  無断で貼られたポスターは処分させて頂きます。

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